勝手神社
かってじんじゃ

旧社格 村社
所在地
奈良県吉野郡吉野町吉野山354

御祭神 天忍穂耳尊 (あめのおしほみみのみこと)
大山祇命 (おおやまつみのみこと)
木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
久久廼智命 (くくのちのみこと)
草野比咩命 (くさのひめのみこと)
由 緒
蔵王堂の南約五百メートル、袖振山を背後にして鎮座する。祭神は天忍穂耳尊・大山祇命・木花咲弥姫命・久久廼智命など六神。「和州旧跡幽考」には受鬘命とある。吉野水分神社に対して、山口神社ともいう。日雄寺継統記(桜本坊蔵)は考安天皇六年創立と伝える。金峯山秘密伝(日本大蔵経)に「伝云、勝手大明神此多聞天王垂迹、此仏法護持大将、国家鎮守首鎮也」とあり、中世には蔵王権現とともに修験者の信仰が厚かった。「太平記」巻26(吉野皇居炎上事)に、後村上天皇が「勝手の宮」の前で馬を下り「憑カヒ無ニ付テモ誓ヒテシ勝手ノ神ノ名コソ惜ケレ」の一首を残して高師直の軍を賀名生(現奈良県西吉野村)に避けたとある。「和州巡覧記」巻7に「此神前にて、静法楽の舞を舞いし装束、幷義経の鎧、宝蔵にありしが正保比火災にやけ失せぬ」とあり、境内に静御前の舞塚というものがある。文禄四年(1595)の吉野山惣中御朱印地行割写(密井氏所蔵文書)によると、社僧17人52石・禰宜神主11人16石5斗を配分されている。
  【社澱・天女降臨伝説】
慶長九年(1604)豊臣秀頼の改築した社殿は正保元年(1644)に焼失、明暦二年(1656)に再建されたが、同四年に再び焼失した。現在の本殿(県指定文化財)はその後の再建で、流造檜皮葺、桁行八間・梁間二間。もと社務所前にあった「金峯山下御前湯釜也 康歴元年(己未)後卯月勧進」の銘の湯釜は吉水神社(現吉野町)に保存されている。背後の袖振山には、大海人皇子がこの神前で琴を弾いて歌った時、にわかに五色の雲がたなびき天女が天降って袖を翻して舞ったという伝説がある。「惣国風土記」「本朝月令」などはこの天女降臨の記事を掲げて五節舞の起源としている。「吉野拾遺」には後醍醐天皇が豊明節会にこの故事をしのんで詠んだ歌の記事がある。「新葉集」に後醍醐天皇の作、「袖かへすあまつをとめも思ひいづやよし野のみやの昔がたりを」がある。
     -寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-


本社前の建物

本殿跡

平成13年社殿全焼
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