和爾下神社
わにしたじんじゃ

旧社格 指定村社・式内社
所在地
奈良県天理市櫟本町宮山2490

御祭神 主祭神 大己貴命 (おおなむちのみこと) 左側
素盞鳴命 (すさのうのみこと) 中央
櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと) 右側
末社祭神 熊野大神 (くまのおおかみ) 十二神社
猿田彦命 (さるたひこのみこと) 猿田彦神社
市杵島姫命 (くちきしまひめのみこと) 厳島神社
事代主命 (ことしろぬしのみこと) 恵比須神社
菅原道真 (すがわらみちざね) 天満宮
宇賀魂神 (うかのみたまのかみ) 稲荷神社
大己貴神 (おおなむちのかみ) 金毘羅宮
大己貴命 (おおなむちのみこと) 琴平神社
大年神 (おおとしのかみ) 大年神社
天照皇大神 (あまてらすすめらおおかみ) 天照皇大神宮
表筒男命 (うわつつおのみこと) 住吉神社
保食神 (うけもちのかみ) 稲荷神社
由 緒
『延喜式』神名帳にある和邇下神社二座のうち、一座は天理市に、一座は大和郡山市に鎮座の社があてられている。『大和志』に、一座は櫟本村に在り、号して上治道の天王といい、近隣五村に祭祀に預る。一座は横田村に在り、号して下治道天王といい十一村共祭祀に預るとある。  前者は、古代の上ッ道と横田道の交差点に、後者は、高瀬川と和邇川の合流点から1.5キロ西にあり、二社は東西線上2.5キロを距てて鎮座している。二社とも中央に、素盞鳴命、左に大己貴命、右に櫛稲田姫命を祀っている。前者の鎮座地は、東大寺櫟庄で神護景雲年中(767-70)から開発のため池・水路を造り替え、横田道も改修されたと『東大寺文書』に出る地域である。寿永三年(1184)の「柿本朝臣人麻呂勘文」は、添上郡石上寺傍らに社あり、治道社と称す。その社中に寺あり柿本寺と称すとみえ、古くから治道の称のあった所で、柿本寺は当社神宮寺だった。人丸塚があり、寺跡から奈良時代の古瓦が出土する。本殿は桃山様式の三間社で、重要文化財に指定されている。後者は、近世まで添上郡の属した所で、神社北隣の横田下池から弥生期の遺物が検出されている。横田郷の郷社として、南山城の祝園村まで氏子があったと伝え、古代和邇氏の勢力範囲の広さを思わせる。横田の社の周辺は、かって柿本氏と同族の櫟井氏の根拠地であったとみられている。『新撰姓氏禄』に「櫟井臣、和邇部同祖、彦姥津命(孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後也。)。柿本朝臣、天足彦国押人命の後也。和邇部、天足彦国押人命三世孫彦国葦命の後也」とあるところから考えると、本来は前者の櫟本の社には柿本氏の租紳を、後者の横田の社には櫟井氏の租紳を祀る神社で、共にその租紳の本源は和邇氏一族の租紳天足彦国押人命でなかったろうかとみられるが、いつのころからか現祭神となり、牛頭天王とも呼ばれるようになった。
     -奈良県史(神社)より-

神社入口
神社入口

前の道路は国道169号線です。
すぐ南側は、西名阪自動車道路「天理インター」です。
万葉歌碑
万葉歌碑
古墳の案内板
古墳の案内板
境内の参道
鳥居を入った所の参道
参道の階段
参道の階段
拝殿
拝殿
拝殿横からの本殿
拝殿横からの本殿
拝殿からの本殿
拝殿からの本殿
若宮側からの本殿
若宮社側からの本殿
狛犬 狛犬
狛犬
若宮
若宮社
若宮
若宮社

本社の横の鎮座
稲荷神社

豊川稲荷神社
境内社

住吉神社(左)
稲荷神社(右)
天満神社 天照皇大神宮
境内社

天満神社(左)
天照皇大神宮(右)
境内社

琴平神社・熊野神社

参道の境内社

厳島神社(左)
十二神社(右)
影姫の歌碑
影姫あわれの石碑


石の上 布留)を過ぎて

薦枕 高橋過ぎ

物多に 大宅過ぎ 春日 

春日を過ぎ

妻隠る小佐保を過ぎ

玉笥には 飯さえ盛り

玉?に 水さえ盛り

鳴き沾ち行くも 影媛あわれ
柿本寺跡案内板
柿本寺跡
柿本寺跡
柿本神社
柿本神社

柿本寺跡の横でこの辺が境内のようだ。
柿本人麻呂の像
柿本人麻呂の石像
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