大野寺
おおのでら

真言宗室生寺派
所在地
奈良県宇陀市室生区大野1680

御本尊 木造弥勒菩薩立像(秘仏)
由 緒
楊柳山と号し、真言宗室生寺派。本尊は木造弥勒菩薩像であるが、現在では室生川を隔てた屏風ヶ浦という大岸壁に線刻してある弥勒菩薩像のほうが実質上の本尊となっている。寺伝によると白鳳年間に役の小角が開創してのち、天長元年(824)空海が一堂を建て慈尊院弥勒寺と称し、室生寺(現室生村)の西門ともいわれたという。明治33年(1900)12月の大火で伽藍のほとんどを失った。現在の本堂・鐘楼・庫裏・土蔵などはその後の再建である。本堂には鎌倉末期の木造地蔵菩薩立像(国指定重要文化財)を安置する。書跡では鎌倉・室町時代の大般若経600巻のうち、360巻が現存する。境内は枝垂桜の古木で名高く、鎮守の春日社は赤童子を祀る。裏山の閼伽井の不動といわれる石仏は鎌倉期の作で、足下の湧水は臍井の香水として昔から信仰されている。
     -寺院神社大辞典より-


大野寺

室生寺の入口ですが、車で来ると、室生寺だけ参詣して大野寺は、一度も来ていなかった。今回初めて磨崖仏をみた。

磨崖仏

対岸の岸壁に線刻の弥勒菩薩像

大野寺磨崖仏

室生川を隔てた石英安山岩の大岸壁に刻まれた大磨崖仏。二重光背形に堀込み、表面は水磨きして、踏割蓮座上に立つ弥勒菩薩像を線刻する。光背堀込総高約13.8メートル、仏身総高(蓮座を含む)約11.5メートル。国指定史跡。鎌倉時代の初め、興福寺の雅縁が笠置寺(現京都府笠置町)の大弥勒石造を模して造立することを発願し、承元元年(1207)冬から宋人石匠が彫刻し、同3年3月7日には落慶供養が営まれた。「興福寺別当次第」「百練抄」は後鳥羽上皇の臨幸を載せる。万治2年(1659)法印成員の筆になる寺蔵の石仏縁起によると、宋人石工は伊行末とその一派をさすものとみられる。石仏の向かって左下に磨崖尊勝曼茶羅が刻されている。約2.8メートル角の輪郭のうちに直径約2.2メートルの円形を彫り鎮め、中央に大きく金剛界大日、周辺に諸仏・明王・童子を表す梵字を薬研彫する。石仏と同じ頃に刻まれたものであろう。
本居宣長の「管笠日記」には「大野寺といふてらのほとりに、又あやしき岩あり。道より2・3町左に見えたり。こは名高くて、旅行く人もおほく立ちよる所也といへば、ゆきて見るに、げにことさら作りて、たてたらんやうなるいはほのおもてに、みろくぼさつの御かたとて、ゑりつけたる、ほのに見ゆ。其仏の長、五丈あまり有といふを、岩の上つ方は、猶あまりて高くたてる。うしろは山にて、谷川のきしなるを、こなたよりぞ見る。」とある。
-寺院神社大辞典より-

周辺で大国様の彫刻があります
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