阿紀神社
あきじんじゃ

旧社格 指定県社・式内社
所在地
奈良県宇陀市大宇陀区迫間

御祭神 主祭神 天照大神 (あまてらすおおみかみ)
配 祀 天手力男命 (あめのたじからおのみこと)
瓊々杵尊 (ににぎのみこと)
秋姫命 (あきひめのみこと)
八意思兼命 (やごころおもいかねのみこと)
合 祀 天水分命 (あめのみくまりのみこと)
金山彦命 (かなやまひこのみこと)
金山姫命 (かなやまひめのみこと)
菅原道真 (すがわらみちざね)
末社祭神 月夜見命 (つきよみのみこと) 一殿
大国主命 (おおくにぬしのみこと)
日臣命 (ひのおみのみこと)
事代主命 (ことしろぬしのみこと) 二殿
品陀別命 (ほんだわけのみこと)
和多津見命 (わたつみのみこと)
須勢理姫命 (すせりひめのみこと) 三殿
由 緒
宇陀川の支流神戸川西岸に鎮座。旧県社。往時は天照大神・瓊々杵尊・高皇産霊尊を祀っていたと伝える。「皇大神宮儀式帳」に、天照大神は垂仁天皇の時代に倭姫を御杖代として美和の諸宮を発し、宇太の阿貴宮に坐して、そこから佐々波多宮に行ったとあり、宇太の阿貴宮が当社とされる。同様なことが「倭姫命世記」にもみえるが、同記では宇多秋志野宮で四ヵ年奉斎、その時に倭国造が釆女香刀比売に地口御田を寄進したと記す。「延喜式」神名帳宇陀郡に「阿紀神社」があり、「大和志」は当社に当てる。当社は俗に神戸明神と称され、元禄(1688-1704)頃の松山町古図(山辺家蔵)には「神戸阿紀神社」と見える。神戸とは伊勢神宮の神戸のことで、宇陀郡に15戸の神戸があった(大神宮諸雑事記)。寛永10年(1633)の社記(宇陀郡史料)によれば、当社は天照大神の本地で、昔は宇陀郡一円が社領108人の社家を持ち、21年ごとの式年造宮があって380間の井墻をめぐらし、120の末社があったという。当社付近は伊勢紳領であったが(『宇太水分神社古図』古市場の宇陀水分神社蔵)、宇陀郡が奈良春日社・興福寺の荘園となるに従い、当地にも春日社領秋山荘が成立。当社もその支配を一部受けるようになった。室町期の宇陀郡田地帳案(春日大社文書)には秋山荘に神戸明神領として74石があてられていたことがみえる。前掲社記によれば秋山荘荘官秋山氏は当社神主となったが、戦国の騒乱の中で零落、当社も天正三年(1575)頃より漸次社領を失って社頭は荒廃した。しかし、その後松山藩主から度々寄進を受けている(大和志料)。「和州旧跡幽考」には「当世宇陀の町より四、五町坤の方に、俗に皇太神御鎮座の跡とて小社あり。其所の名を神戸といえり」とあり、「大和志」には「域内有中祠九前、隣村三十共預祭祀」と記される。関係寺院に大日堂があったが(神戸太神宮御供所之御定)、詳細は不明。
     -寺院神社大辞典より-


倭姫が御神体の鏡を持って鎮座地を探すときの中継点で一時期ここにとどまったといわれている。

案内板

神武天皇紀州熊野の難所を越し大和国宇陀へ出て当地阿騎野において御祖の神を敬祭り国中へ押出すとき朝日を後に戴きて日神の御位勢をかり賊軍を打ちはらい御運を開かせ給ふと当社古文書にあり祭神は伊勢神宮と御同体の天照大神社殿は神明造り南向と伊勢神宮と全く同じ建て方になっております。境内にある能舞台は宇陀の地が元和以来織田藩の治所となり三代長頼公時代に始められたものといわれている。
(案内板の表記)

拝殿

頑丈な扉で拝殿にも入れません

拝殿横から能舞台

舞殿から拝殿・本殿を見る
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