誉田八幡宮
こんだはちまんぐう

旧社格 府社
所在地
大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8

御祭神 主祭神 応神天皇 (おうじんてんのう)
末社祭神 素盞鳴命 (すさのおのみこと) 当宗神社
姫侍稲荷神社
恵比寿神社
安産社
由 緒
誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。
応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。
天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。
応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。
応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。
天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。
応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。
大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。
秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。
応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。
また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。
中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。
さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。
とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。


参道からの社殿

応神天皇陵の後円部の南側に鎮座の八幡宮とのことでわくわくした気持での参拝でした。

古戦場跡の石碑

古戦場跡の立札

恵比寿社

神馬

姫待稲荷社

姫待稲荷社

拝殿

東面する入母屋本瓦葺で間口十一間、奥行三間の組長い木造建築で、いわゆる割拝殿の形式であって正面中央部を拝所とし向拝(ごはい)部分は、唐破風造りで蛇腹天井となっている。
この建物は、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐旦元を任じて再建させたものであるが、完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発したため八割方出来上がったまま放置されていた。その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工したものと考えられている。
この拝殿は、天井が張られていないので木組みの有様が観察することができる。徳川家によって最後の仕上げがなされたので、三つ葉葵の定紋が付けられている。


拝殿からの本殿

多宝塔

当宗神社(まさむねじんじゃ)

当宗神社の祭神は、現在素盞鳴命であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸」祖神である山陽公を祭っていたようである。当宗忌寸の子孫、には、宇多天皇の祖母が歴史上現れている。
その旧地は、放生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に八平方メートルほど残存している。
-立札より-

法生橋

南大門横に安産木

南大門
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