吉備津神社
きびつじんじゃ

旧社格 官幣中社・三備一宮・名神大社
所在地
岡山県岡山市北区吉備津931

御祭神主祭神大吉備津彦大神 (おおきびつひこのおおかみ)
相殿神 御友別命 (みともわけのみこと)大吉備津彦命の子孫
仲彦命 (なかつひこのみこと)
千々速比売命 (ちちはやひめのみこと)大吉備津彦命の姉
倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
日子刺肩別命 (ひこさすかたわけのみこと)大吉備津彦命の兄
倭迹迹日稚屋媛命 (やまとととひわかやひめのみこと) 大吉備津彦命の妹
彦寤間命 (ひこさめまのみこと)大吉備津彦命の弟
若日子建吉備津彦命 (わかひこたけきびつひこのみこと)
摂社・末社祭神孝霊天皇 (こうれいてんのう) 本宮社 大吉備津彦命の父
吉備武彦命 (きびのたけひこのみこと)新宮社 若日子建吉備津日子命の子
百田弓矢比売命 (ももたゆみやひめのみこと)内宮社 大吉備津彦命の妃
 ()三社宮 (春日宮)
 ()三社宮 (大神宮)
 ()三社宮 (八幡宮)
建日方別命 (たけひかたわけのみこと岩山宮 吉備国の地主神
 ()滝祭神社
 ()えびす社
 ()祖霊社
 ()一童社
 ()宇賀神社
由 緒
「古事記」・「日本書紀」によれば、御祭神・大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子と生れ、第十代崇神天皇の御代、四道将軍の随一として吉備国に下られ、当時、当地方にて蛮行を重ね大和朝廷に対抗していた温羅(百済の王子とも伝えられる)一族を平定し、平和と秩序を築き、この地に茅葺宮(当社の摂社 本宮社の場所という)を営まれて吉備国の人々のために殖産を教え仁政を行い、281歳という長寿を以て当地に薨去せられ吉備の中山の山嶺に葬られました。
 社伝によると第十六代仁徳天皇が、吉備族より上がった采女・黒姫を慕って吉備国に行幸された時に歓待にあった吉備族より大吉備津彦命の業績を聴かれ、さらに大吉備津彦命の霊夢によりその徳を偲んで吉備国の祖神として崇め、五社の神殿と七十二の末社を創建せられ、奉斎なされたと伝えられます。「続日本後記」の承和十四年(847)従四位下の神階授与を初見に、延喜式の定まるや名神大社に列し、やがて天慶三年(940)には最高の一品の神階を贈られ「一品吉備津大明神」や「一品吉備地宮」また三備(備前・備中・備後)の一宮と称され、都を遠く離れた僻地に在りながら朝野の尊崇殊のほか篤く、平安末期の「梁塵秘抄」をみてもその御神威の程を窺うことが出来ます。
 中世以降、江戸時代中期まで他社の例にもれず当社もまた神仏習合の長い歴史を過ごしてきましたが、明治の神仏分離を待たず、江戸時代中期には分離し、現在に至っております。産業の守護神として、長寿の守り神として、その御神徳を慕う人々は今も昔も変わることなく吉備国の祖神として尊崇のマコトを捧げ続けております。また、吉備国の人々に歴史とロマンを伝えてきた大吉備津彦命の温羅退治の伝説神話が中世以降全国的に知れ渡っている「桃太郎」のルーツとしても親しまれています。
     ―神社の栞より― 

神社入り口
神社入り口
手水舎
鳥居手前の手水舎
境内庵合図
由緒板

矢置岩の由来

社伝によれば当社の西北八キロの新山に温羅という鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ。大吉備津彦命は「吉備の中山」に陣取り、鬼神と互いに弓矢射るに両方の矢 空中に衝突して落つ。そこに矢喰宮(岡山市北区高塚に現存)あり。また中山主神は鬼神の矢を空中に奪取す。当社本殿の中に祀る矢取明神は、すなわちそれなり。この戦の時大吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶと。旧記によれば中古より箭祭の神事あり。願主は櫻羽矢または白羽の矢を献る。神官その矢を岩上に立てて交通の安全を祈る。のちその矢を御蔵矢神社に納むる例なりきと。この神事いつしか中絶せしが昭和三十五年岡山県弓道連盟の奉仕により復活され毎年正月三日ここに矢立の神事を斎行することとなれり。
参道
参道

上に見えるのが北瑞紳門
(国指定重要文化財)

瑞紳門からの授与所

本殿・拝殿(国宝)

本殿


拝殿

拝殿は本殿の正面に接続して突き出した建物で本殿と一体となっている。

授与所

本殿

一童社前から

一童社

学問・芸能の神様をお祀りしてあり、江戸時代の国学者も厚く信仰したと伝えられ、近年では進学を目指す人々のお参りが絶えません。

銀杏の神木

北瑞紳門
(国指定重要文化財)

北瑞紳門は北の参道に位置し、室町中期の再建になります。南瑞紳門は廻廊の途中にあり延文二年(1357年)の再建で当社諸殿宇中最古の建築物です。共に吉備津彦命に従い吉備国の平定に活躍した神々をお祀りしています。
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