唐招提寺 とうしょうだいじ | |||
律宗総本山 (世界文化遺産) | |||
所在地 | 奈良県奈良市五条町13-46 | ||
御本尊 | 乾漆廬舎那仏坐像(国宝) | ||
由 緒 | 都が奈良にあった千二百年前は、平城京右京五条二坊に当り、いわば首都の中心街区であった。西紀759年(天平宝字三年)天武天皇の皇子新田部親王の旧邸地を賜ってここに唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招提-み仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺名として掲げる。別に建初律寺とも称するが、これは中国四分津の南山宗による戒律を軸として教学に励む我国最初の律寺ということである。今も日本律宗総本山として仰がれている。 開山唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧、わが聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として来朝することになったが、754年(天平勝宝六年)東大寺に到着するまで十二年間、前後五回に及ぶ難航海に失敗したにも拘らず、初志を曲げず、奈良の都に着いた時は両目を失明していたほどである。かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武・考謙両帝をはじめ、我国の多くの高僧たちに授戒した。すでに仏教国家の形態を整えていた我国が、画竜天晴の実を挙げたのは、まさに大和上の功績である。このことは中学校の教科書にも出ている事績だが、ひとり仏教史の上だけでなく、ひろく天平文化に及ぼした影響は測り知れざるものがある。まことに日本の大功労者であった。 東大寺戒壇院を退いて当寺を建立し、在すこと四年。763年(天平宝字七年)五月六日、76歳をもって寺内に示寂した。弟子たちが師の大往生を予知して造った和上の寿像(乾漆・国宝)は、山内開山御影堂に安置され、毎年六月六日(五月六日を新暦六月六日にあてる)御忌当日を中心に前後三日間(五日ー七日)開扉されるが、「若葉しておん目の雫拭はばや」と詠じた俳聖芭蕉ならずとも、像前に襟を正して感動を禁じ得ぬのである。その和上の御廟は御影堂の東に隣接する林中に静まっている。仏教文化華やかだったあのころに輩出した高僧たちの名は、史上おびただしく遺っているが、さて、それらのお墓は、たまたま出土品によって明らかとなった行基菩薩の墓所のほか他に例を見ず、歿後千二百年間香華を絶やさずお詣りされて来たのは、ひとりここ和上の御廟あるのみである。 -拝観のしおりより- | ||
南大門 昭和35年建立 奈良時代の様式を模した建物 | |||
世界遺産の石碑 南大門と金堂の間の通路 | |||
金堂平成大修理 基壇部も発掘調査し、修理再建の様子がガラス越しに見られます。平成21年完了予定とのこと。 秋に金堂平成大修理落慶法要。 | |||
戒壇 鐘楼の西に別格の建物 石造三段の豪壮なもので、和尚が東大寺に創めた戒壇院の土造のそれとしばしば対比されるのである。こちらは江戸末期の祝融に禍されて外講を失ったが雨露に堪えて粛然たる厳格さはひしひしとわれらに迫り、おのずから襟を正さしめるであろう。このたび最上層にインド・サンチーの古塔を奉安し、周辺も整備して授戒場としての面目を一新した。 | |||
講堂 平城宮の東朝集殿を賜って移築。 堂内には、弥勒如来(鎌倉時代)・持国・増長二天(奈良時代)を安置する。 | |||
礼堂 東室と旧開山堂 | |||
礼堂 中央通路からの風景 | |||
礼堂 東室三面僧房東室の 遺構(鎌倉時代)で、南半分は解脱上人釈迦念仏会の道場(礼堂)に改造されている。僧房は上代寺院が全寮制の学問寺だったことを示す名残りで、かっては多くの律僧たちが厳しい起居をしたところである。 | |||
宝蔵と経蔵 二つの校倉。南(右側)が経蔵、北が宝蔵となっている。ともに遺存例少ない天平校倉で、殊に経蔵はこの寺創始以前、新田部親王の邸宅があったころの遺構だから、756年成立の正倉院宝庫よりさらに古く、我国現存最古の校倉として記憶される。 | |||
石塔 宝蔵と経蔵の中間に二基 | |||
御影堂への通路 | |||
歌碑 北原白秋が鑑真和尚を偲んで詠んだ歌 「水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ」 | |||
御影堂境内の花 「藤」と「けい花」 | |||
「けい花」 | |||
御影堂 | |||
御影堂 | |||
ダイゴ井 | |||
御影堂前の通路 この通路で境内が分離されている感じです。 | |||
鐘楼 | |||