西大寺
さいだいじ

真言律宗の総本山
所在地
奈良市 西大寺芝町1-1-5

御本尊 釈迦如来
由緒
南都七大寺及び「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一。平城宮の東に東大寺、西に西大寺。
天平宝字八年(764)九月十一日恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が発覚した日で、聖徳(考謙)天皇はこれを期に鎮護国家を祈願し、四天王像造立の発願があったものと考えられる。翌天平神護元年(765)四天王像が完成し、伽藍が開かれた。西大寺流記帳は「居地参拾壱町、在右京一条三四坊、東限佐貴路 南限一条南路、西限京極路 北限京極路」と寺地を記している。薬師金堂・弥勒金堂・東西五重塔・十一面堂院・小塔院・政所院・正倉院・西南角院・東南角院など建物の数は百十数宇に及ぶ。平安時代になると堂塔は次々に被災する。鎌倉時代にようやく復興の気運があがり、本格的な復興は、叡尊入山以降である。叡尊は文暦二年(1235)五月十六日に始めて西大寺に移住して以来、戒律の復旧と伽藍の復興に力を注いだ。叡尊は興福寺学侶慶弦を父にもち、高野山、長岳寺、功福寺などに転じ、当寺において90歳で没するまで南都仏教に寄与するところ大で、興正菩薩と贈号された。文亀二年(1502)五月七日には兵火を受け一山焼亡し、四王堂・中門・石塔院・地蔵院・東大門のみが焼け残った。寛永元年(1674)には護摩堂を建立、延宝二年(1674)には観音堂(四王堂)を建立に着手し、正徳元年(1711)に完成した。現在の本堂(県指定文化財)は宝暦二年(1752)の棟札があり、藍染堂(同文化財)は同十二年に京都から移築。
     -寺院神社大辞典より抜粋-


門からの境内

東大門

四王堂

愛染堂

塔跡と鐘楼

塔跡と本堂
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