旧大乗院庭園
だいじょういんていえん
所在地
奈良県奈良市高畑町1083-1


大乗院庭園の歴史
大乗院は、寛治元年(1087)に創建された興福寺の門跡寺院でした。現在の奈良県庁の位置にあった創建当初の大乗院は、治承4年(1180)の平重衛による南都焼き討ち後に現在地に移り、江戸時代末まで続きました。鎌倉時代から室町時代にかけて大乗院は何度かの火災に見舞われますが、宝徳3年(1451)の徳政一揆による火災では伽藍は灰塵に帰し、翌年から関白一条兼良の子息で当時22歳だった門跡・尋尊が復興に努めることになります。尋尊による建物や庭園の復興のようすは、『大乗院寺社雑事記』から知ることができます。
さらに、感じ6年(1465)からは、将軍足利善政の命を受けて、作庭の名手・善阿弥による大乗院の作庭が始まります。文明3年(1471)まで断続的に行われた善阿弥による作庭は、その子・小四郎に引き継がれながら、長享3年(1489)には最終的に建物・庭園を含めた伽藍整備が完了しました。この頃には、公家たちがしばしば訪れて庭景を楽しんだとされ、「南都随一の名園」として知られました。  江戸時代に入ると、大乗院では安定した経済基盤をもとに、数寄屋造建物の築造などが進められます。奈良国立博物館に移築されている茶室の八窓庵(含翠亭)は、もともと大乗院にあったものです。また、門跡・隆温によって庭園の各部分に四季の装いを振り分けて描かれた『大乗院四季真景図』は、江戸時代末期の大乗院を知る上で貴重な資料であり、近世末にも庭園が美麗な姿を保っていたことがうかがえます。  明治時代になると、大乗院門跡は松園家と改称し男爵に叙せられますが、明治10年(1877)には大乗院を売却。建物は除却・分散し、その後、敷地は飛鳥小学校や奈良ホテルのテニスコートなどになり、さらに昭和17年(1942)には敷地の東端を削って道路が建設されました。戦後の昭和33年(1958)に敷地西部に国鉄の保養施設が建設されますが、この時、池を中心とする庭園の大部分が国の名勝に指定され、ようやく文化財として保護の対象となるのです。  平成7年(1995)からは管理団体である(財)日本ナショナルトラストを事業主体として、奈良文化財研究所による発掘調査とその成果に基ずく整備が始まります。発掘調査の中で特筆すべきは、埋まっていた西小池の状況が細部まで明らかにされたことです。室町時代の様相を把握することはできなかったものの、江戸時代の遺構はきわめて良好に残存していたのです。その遺構は、『大乗院四季真景図』に描かれた景色と非常によく合致しました。  これを受け、庭園、特に西小池一体の整備の対象は江戸時代末の状況とし、発掘された遺構を保護する観点から、遺構上に覆土し嵩上げした整備地盤面で庭園を復元する手法を採用しました。ただし、『大乗院四季真景図』に描かれた景石はほとんど残存していなかったことから、景石の復元は行わず、橋と橋挾石だけの復元にとどめています。
     -入園パンフレットより-


中島への太鼓橋

奈良ホテル側からの景観

西小池

西小池と太鼓橋

復元模型

大乗院庭園文化館に展示

大乗院跡の石碑

庭園の外(西側)にある

入り口からの庭園全景
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