秋篠寺
あきしのでら
所在地
奈良県奈良市秋篠町757

御本尊 薬師如来(薬師瑠瑞光如来)

秋篠寺沿革略記奈良時代末期宝亀七年(七七六)、光仁天皇の勅願により地を平城宮大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とは,時を同じくしてその完成を見、爾来、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝来されて以後、大元帥明王影現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね真言密教道場として隆盛を極めるも、保延元年(一一一二五)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及び境内各処より出土する古瓦等に偲ぶ外なく、更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山各時代に亘る復興造営の甲斐も空しく、明治初年廃仏棄釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のまヽに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っている。 当寺草創に関しては一面、宝亀以前当時秋篠朝臣の所領であったと思われる当地に既に秋篠氏の氏寺として営まれていた一寺院があり、後に光仁天皇が善珠僧正を招じて勅願寺に変えられたと見る説もあり、詳しくは今後の研究を待つ外ないが、当寺の名称の起りを解明する一見解として留意すべきである。  なお宗派は当初の法相宗より平安時代以後真言宗に転じ、明治初年浄土宗に属するもヽ昭和二十四年以降単立宗教法人として既成の如何なる宗派宗旨にきも偏することなく仏教二千五百年の伝統に立脚して新時代に在るべ人間の姿を築かんとするものである。   (入館パンフレットより)
本  堂
当寺創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以後鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ぱれてきたもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の中にも均整と落ちつきを見せる純和様建築として注目される。桁行一七・四五米(五間)、梁間一二・一二米(四間)、軒高一二・七八米、軒出二ー二九米。

堂内尊像
愛染明王(あいぜんみょうおう)
寄木造坐像赤色、推定鎌倉時代末期。喩祗経愛染王品の所説によって造顕され、一面真言宗の要典理趣経を具象化した明王とも考えられる。大愛欲大貪染三昧に住する尊で、人間の煩悩を以って菩提心たらしめる法力を加備したまうと説かれる。

   帝釈天(たいしやくてん)
頭部乾漆天平時代、体部寄木造鎌倉時代、極彩色立像(後記伎芸天の項参照)。普通梵天と一対を成し仏法の守護神として崇められるが、もとはインド教に於ける軍神で、古くより様々の形でインド神話に現われる大神。衣紋の彫の強さ、上半身に見える引き締った厳しさ等に鎌倉彫刻の特性が感じられる。(重文)

不動明王
寄木造立像、極彩色、推定鎌倉時代末期。大日如来の使者として真言行者を守護し忿怒の御姿を以って悪魔煩悩を滅除したまうと説かれ、平安時代以降広く信仰される。

   薬師如来(薬師瑠瑞光如来)
寄木造坐原麦色、推定鎌倉時代後期。当寺本尊。左手に薬壷を持し、右手は施無畏印を成して衆生の病苦を除き安楽をもたらす慈悲尊と説かれ我国仏教の初期より薬師信仰は極めて盛んである。御面相等に貞観風の厳しさも感じられるが技法上かなり後此の作と思われる面が多い。 (重文)
   日光菩薩・月光菩薩
共に一木造立像、平安時代初期、当初は極彩色であったと思われる。薬師如来本願経により、薬師如来の両脇侍として造顕され、如来の太陽の光の如く温かい慈悲と、月の光の如く清らかな知慧を表すべく夫々の御手に鏡を持して各日輪及び月輪を示すもので、上代の作例としては珍らしい原形である。(重文)
   十二神将
寄木造立像ヽ極彩色f鎌倉時代末期。薬師如来の巻属として薬師如来の浄土、衆生を護る十二の夜叉。経典には更に各々七千の脊属を従えて護法の任に当ると説かれる。子・丑・寅等十二支の動物形を夫々冠に戴く表現は概して鎌倉時代以降のものに多く見られ、十二の時間及び方位の呼称に結びついた後世の思想に基くものと考えられる。
   地蔵菩薩
一木造立像、変色、平安時代中期。地蔵菩薩本願経によれば、釈尊入滅の後五十六億七千万年を経てこの世の一切衆生を済度するため弥勒菩薩が出現せられるまでの無仏五濁の世にあって、六道衆生に光明を授け衆中を巡導し救済したまう菩薩と説かれ、平安時代初期より盛んに信仰される。単純さの内にも優稚にして清楚の感深く典型的な藤原時代の作風を見せている。(重文)
伎芸天(ぎげいてん)
頭部乾漆天平時代、休部寄木鎌倉時代、極彩色立像。密教経典「摩酸首羅大白在天王神通化生伎芸天女念誦法」等によって造顕され経意によれば大白在天の髪際から化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまうと説かれている。古くは各地に於ても信仰されたと思われるが現在では他に全くその適例を見ず我国唯一の伎芸天像である。前記帝釈天像及び梵天像(現在奈良国立博物館に出陳中)、救脱菩薩像(同)の一二体と同様最初天平時代に道順され、後災禍のため御胴体以下を破損し鎌倉時代に至って体部が木彫で捕われたものと考えられ、これら四体の像はいづれも頭部のみ当初のままの乾漆道で外部は寄木造である。現在鬘部の宝冠及び両肩より垂れる天衣の一部が欠失し単純な形であるが、時代を隔てヽなお保たれる調和と写実的作風は限り無い人間味を湛え古くより美術家文芸家等の間にも広く讃仰者を集めている。(重文)
   五大力菩薩
五体共に寄木造、推定平安時代末期。極彩色。旧訳仁王経に於て、王者がこの菩薩を供養すれば国土安泰と説かれる。台座は本来の岩座を欠失し目下仮座である。その他の主な尊像

別尊大元帥明王御縁起

大元帥明王(たいげんみょうおう)とは詳には大聖無辺自在元帥明王と称し、仁明天皇承和六年十二月常寧殿にて勅修以来、宮中に於てのみ修せられるべく御治定の鎮護国家の大法大元帥御修法(たいげんのみしほ)の本尊として重んぜられ、何地に於ても勅許を得ざる修法は勿論、尊像の造顕本置も禁ぜられ、その結果我国唯一の像として当寺に伝わるものであるが、その因縁には、かつて常暁律師当寺の関知井に於て水底に落る自らの彰を眺めるうち更にその背後に長大なる忿怒の形影の重なるを観、甚だ奇特の思いを為してその形を図絵し此を身に帯び、後日渡海人唐の時、折あって此の尊法に遭うを得、先
ず本尊を拝するところ正しく本国秋篠寺に化現の像と同じく、これを以って奇しくも明王常暁律師の求法に先立って当寺香水閣関知井に示現せられたると知るべきを示す伝説があり、更にその機縁の故に永く禁裏御香水所として明治四年まで例年一月七日の御修法に際し献泉の儀を務めたる歴史を有つ。なお、阿哩薄倶元帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌(唐善無畏訳)の本文を取抄すれば左の如くである。 我信し我礼し我帰し奉る元帥大明王、此れは此れ大毘盧遮那の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生の父母にして不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の 功徳心等一切を摂して衆徳荘厳せり。或は金剛忿怒の相を現し、或は菩薩大慈悲相を現じて類に随って擁護したまう。今願力の故に以って大元帥明王となし、諸尊の中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。 ごし一切世間有情の類、宝呪を持し宝号を称せんに、内外諸障を除きて、必ず世間出世間の願にこたえん・菩提心を成ぜんと願じ、乃至金剛心無畏心に住せん等の出世間の大願を発せんに正法護持の故に悉く願成就せん。又衆生あって、正因縁に住し、災を息めんものは即ち願成就し、栄福を求めんものは即ち願成就しヽ勝利を為さんものは即ち願成就し、横病を離れんものは即ち願成就せん。明王の名を聞いてー度讃嘆せんものはヽ世間の宝果悉く円成す。かるが故に一切世間悉く当に大元帥に販依すべし。
大元帥明王御真言のうぽうたりつたぽりつ ばらぼりつ しやきんめい しやきんめい たらさんだん おえんび そわか(入館パンフレットより)
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