鞍馬寺
くらまてら

松尾山金剛寿命院
鞍馬弘教の大本山
所在地
京都府京都市左京区鞍馬本町1074

御本尊 毘沙門天
由 緒
『開創』
「鞍馬寺史」は延暦15年(796)造東寺長官藤原伊勢人が私寺として創建した寺と云う。『鞍馬蓋寺縁起』では宝亀元年(770)一月四日、鑑真の弟子鑑禎が夢で山城国北方の霊地を知り、宝鞍の白馬に導かれて赴いた。その夜鬼が現れたが毘沙門天により災いを逃れたので、鑑禎は毘沙門天像を彫し草堂を結んだのが当寺のの起こりと云う。なお同縁起は、、伊勢人が観音を安置する一堂の地を求めていたところ夢に貴船明神が現れて教示し、自らの白馬を放ってとどまったところが先の毘沙門天の草堂であった。そこで観音と毘沙門天を神仏習合の本地是一の思想によりともに安置した堂舎を建立したと、これも白馬伝説を交えて説く。毎年一月初寅の日を第一の会式とするのは、鑑禎の霊夢の日によるといわれる。
『改宗』
寛平年間(889-898)京都東寺(教王護国寺)十禅師の逢延が、伊勢人の孫峰直の帰依をうけて鞍馬寺根本別当となってより(拾遺往生伝)、真言宗の公寺となったといわれ、天永年間(1110-13)第四六代天台座主忠尋が来山したのを機に天台宗に改めたという。以来近江延暦寺には門跡相承の職として鞍馬寺検校職がもうけられ(寛喜元年八月十一日「鞍馬寺検校職官符」華頂要略補遺)、鞍馬寺は山門(延暦寺)の末寺となった。治承二年(1178)四月八日には、延暦寺衆徒と鞍馬寺僧200人余が大谷(現京都市東山区)の風早禅師房の房舎を攻撃している記事もみられる(百練抄)。また「平家物語」巻七(主上都落)には寿永二年(1183)七月二十四日夜、源氏の軍勢が京に近ずき平家方が法皇・天皇を奉じて都落ちしようとしているのを察知した後白川法皇が、「右馬頭資時計御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬へ御幸なる。人是を知らざりけり」とある。法皇はこの後さらに「是は尚都近くて、あしう候ひなむ」という鞍馬の寺僧の言ををいれて篠の峰・薬王坂を越え比叡山に移っている。
-寺院神社大辞典より-


鞍馬寺

叡山電車の終点鞍馬で降り、少し歩くと鞍馬寺の入口の到着。ここからいよいよ参詣。

仁王門

明治44年の再建。
仁王尊像は湛慶作と伝えられる。
これより鞍馬山の浄域、邪心を懺悔し心身ともに清浄にとの心構えで参詣。


吉鞍稲荷社
(よしくらいなりしゃ)

鬼一法眼社
(きいちほうげんしゃ)

鬼一法眼社は牛若丸に「六韜三略」の兵法を授けた武芸の達人といわれる。武道の上達を祈願する人も多い。

川上地蔵堂
(かわかみじぞうどう)

牛若丸(義経公)の守り本尊、道を挟んで義経公供養塔があります。

中門

山麓の仁王門の横にあって勅使門と呼ばれ、朝廷の勅旨の通る門であった。

転法輪堂

本殿金堂

宇宙エネルギーである尊天のお働きを象徴する先手観音菩薩・毘沙門天・護法魔王尊を奉安する鞍馬山信仰の中心道場で、四六時中祈りを捧げる人の姿が絶えません。なお御本尊は秘仏で、60年に一度丙寅の年のみお扉が開かれます。本殿の地下は宝殿で、松久朋琳大仏師により彫成された三尊尊天像を中心に、鞍馬山の尊天信仰に生きることを誓った信徒の清浄髪がお祀りされています。

光明心殿

護法魔王尊を祀っています。
護摩供を修する道場です。

鐘楼

光明心殿の上にあります。

八所明神

宮中賢所の祭神である八柱の神を迎えて祀ったという。鞍馬の火祭りには、由岐明神と八所明神と二つの神輿が鞍馬の町中を渡御する。-立て札より-

屏風坂の地蔵堂

背比べ石

遮那王と名のって十年余り鞍馬山で修行をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衛の許に下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。
遮那王が背くらべ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな
與謝野 寛-立て札より-

僧正ヶ谷不動堂

謡曲『鞍馬天狗』の舞台となった場所で、その昔、伝教太師が天台宗開宗の悲願に燃え、一刀三礼の礼を尽して刻んだと伝えられる不動明王が奉安されています。

義経堂

奥州衣川で若い命を散らした源義経の御魂は幼少時代を過ごしたなつかしい鞍馬山に戻って来たと信じられ、遮那王尊としてお祀りされている。
不動堂と対面して義経堂があります。

奥の院魔王殿全景

奥の院魔王殿

堂舎を支える累々たる奇岩はサンゴやウミユリ、フズリナなどの化石を含み、鞍馬山生成の歴史を物語ります。また磐座、磐境とも称され神々が降臨された場所として崇拝されてきました。太古より宇宙の力が満ち溢れており、その波動が、ご開山・鑑偵上人を始め多くの修行者を鞍馬山へと導き、宇宙の真理に目覚めさせたもです。
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