平野神社 ひらのじんじゃ | |||
旧社格 官幣大社・二十二社・式内名神大社 | |||
所在地 | 京都府京都市北区平野宮本町1 | ||
御祭神 | 主祭神 | 今木大神 (いまきおおかみ) | 第一殿 |
久度大神 (くどのおおかみ) | 第二殿 | ||
古開大神 (ふるあきのおおかみ) | 第三殿 | ||
比賣神 (ひめのかみ) | 第四殿 | ||
摂社祭神 | 天穂日命 (あめのほひのみこと) | 県社 | |
末社祭神 | 八幡大神 (はちまんおおかみ) | 八幡社 | |
猿田彦神 (さるたひこのおおかみ) | 猿田彦社 | ||
稲荷神 (いなりのかみ) | 出世導引 稲荷社 | ||
春日大神 (かすがのおおかみ) | 春日社 | ||
住吉大神 (すみよしのおおかみ) | 住吉社 | ||
蛭子大神 (ひるこのおおかみ) | 蛭子社 | ||
鈿女大神 (うずめのおおかみ) | 鈿女社 | ||
由 緒 | 平野神社は古都京都の西北、衣笠山麓の平野にあります。社域は江戸時代初期に再建された重要文化財の社殿を中心に、方約百五十メートル、八〇〇〇坪の鬱蒼とした社の森に囲まれています。当社は桓武天皇の平安京遷都にともない、延暦十三年(794)に平城京田村後宮から現在の地に御遷祀されました。以来1,200年にわたり皇城鎮護の社として上下の信仰を集めております。 初見は延暦元年(今木神)で、京都遷都後、久度、古開、比賣神が祀られます。平安時代初期の仁寿元年(851)「平野神宮今木神に従二位を授ける」と国史に見え、『神宮』という呼称が使われております。また貞観元年(859)には正一位に叙されていると言う神階陞位の速さが特色です。平安時代初期に編纂された律令政治の施工細則を記録した『延喜式』には『皇太御神』と呼称されていて、また平野社春秋の例大祭には皇太子御親祭が記録されております。この皇太御神の呼称は日本の神社としては伊勢神宮にならぶ破格の扱いとされております。また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの十七帝二十一回を記録し、皇城鎮護の二十二社の上社にも選ばれています。その後平安時代には源氏・平氏をはじめ、大江氏、菅原氏など皇室を直接の先祖とされる氏族として平氏政権や源氏の歴代将軍からも手厚い保護を受けていました。 しかし応仁・文明の乱を始として京都が戦乱の巷となった中世末期は朝廷や貴族の保護も出来なくなり、天文五年(1536)の天文法華の乱で宮司卜部兼永が横死、寛永四年の『平野神社縁起絵巻』に慶長年間には社領も失われ社殿、社地は荒れたと記録されています。 そして、江戸時代初期の寛永年間に、平野神社の社寺伝奏(神社や寺の文書を上皇や御所に伝える役)となった平家嫡流の公卿、西洞院時慶(にしのとういん・ときよし)の努力により皇室初め、各公卿、将軍家、島津・伊達などの大名家の援助も受けて現在の社殿が再建されました。時慶卿はまた花山天皇の植栽された桜を復活して社地に桜を植え、その後も西洞院家と歴代宮司が是を受け継いで、『平野の桜』が御室、嵐山などと並ぶ都を代表する桜苑になるまでに育て上げました。また明治維新の後、明治四年(1871)には官幣大社に列せられております。 -参拝のしおりより- | ||
境内入口 | |||
南門 「慶安四年(1651)」御所の旧門を下賜された。 もと表参道の正面(現東鳥居)にあったが、昭和十七年八月南門としてここに移設した | |||
参道 | |||
門からの社殿 | |||
拝殿 | |||
本殿 二棟並んだ社殿 (重要文化財) | |||
境内末社 八幡神社 | |||
境内末社 春日社 住吉社 蛭子社 鈿女社 | |||
猿田彦神社 | |||
出世導引稲荷神社 | |||
御神木(楠) | |||
桜の庭園 |