小泉神社 こいずみじんじゃ | |||
旧社格 村社 | |||
所在地 | 奈良県大和郡山市小泉町2333 | ||
御祭神 | 主祭神 | 素盞鳴命 (すさのうのみこと) | |
誉田別命 (ほんだわけのみこと) | |||
末社祭神 | 八幡紳 | 八幡神社 | |
九頭神 | 九頭神社 | ||
稲荷神 | 稲荷神社 | ||
片桐貞照 (かたぎりさだてる) | 片桐神社 | ||
由緒 |
当神社は人皇第百代、後小松天皇即ち、今を去る事約五00年以上前、明徳・応永年間(室町将軍三代~四代に亘る)此の地方一円の守護神として現在の神域に斎き祀られた。 其の后天文年間当地の豪族小泉四郎左ェ門と云える者が社殿を改築し、遷座祭には京都の神祇官領より来社され祝詞奏上の上奉幣行事が行われて以来、現時に及ぶまで四五0年間連綿として古式其のままの慣習として毎年秋の例祭には神社独特の五色の幣を以って奉幣行事を執り行い来たれるは実に神社の誇りとする処、其の昔を偲ばれるものなり。 されば、往昔より此地方の農・工・商すべての産業開発・方除・治病・禁厭・厄除・交通・縁結び等、世の中のあらゆる幸福をもたらせる神であり、人間生活の守護神として地方住民の崇敬篤く、室町江戸時代を通じ、遠近よりの参詣者絶ゆる事なく社頭は常に賑わいを呈せり。 其の后摂津の国茨木より片桐旦元公の弟・貞隆公が藩主と成るに及び歴代藩主の崇敬厚く、毎年例祭には、片桐家より献茶の儀が行われていた等由緒深き古社なり。 -境内案内板より- 小泉集落西部に鎮座。祭神素盞鳴命・誉田別命。旧村社。永正五年(1508)の小泉南北之御宮日記(宮座所蔵)が残り、南の宮と北の宮があったようである。同日記によると祭礼は南の宮が九月六日、北の宮が九月七日で、10人の頭人からなり、田楽・猿楽も奉納されたらしい。また文安五年(1448)九月六日、七日「マツリノコミコメニツキソロテ ミコ カンヌシ ホツシヨウシト 一方チケノヲトナト サウロンセラレソロニヨツテ」とあるように相論があったが、領主たる「トノ」より鬮で決定するよう指示があり、その結果神主方の主張が通っている。「経覚私要抄」宝徳二年(1450)九月六日条にも「今日小泉祭也」とある。享保九年(1724)の金剛山寺明細帳覚(金剛山寺蔵)付記の小泉村社寺書上に「氏神牛頭天皇」「氏神八幡宮」とあり、寛文年間(1661-73)以前に境内へ移し祀った九頭天王が記され、ほかに天満天神・稲荷社がみえる。九頭天王の旧地は小字水戸で、万治二年(1659)に神田除地として小泉に陣屋を置いた小泉藩藩主片桐貞昌によって認められた。また小泉藩は開発畑の内三反三畝十七歩を灯明料として寄進、牛頭天皇・八幡宮・九頭天皇を小泉三社とも称したらしい。 【文化財】 本殿は一間社春日造・檜皮葺で室町末期のものと推定され、国指定重要文化財。社蔵の女神像一体は通称栴檀木(せんだんのき)にあった神社のものと伝え、当社境内には宝永元年(1704)に栴檀木村氏子が八幡宮へ寄進した石灯籠がある。また元禄十六年(1703)に小泉三代藩主片桐貞房の庶子貞観が、小泉三社に寄進した石灯籠が残る。石灯籠にはほかに寛文九年西座の109にんが奉納したものがある。当社南の勝福寺(聖徳宗)は旧神宮寺。 -寺院神社大辞典(大和・紀伊)より- | ||
鳥居 小泉城跡の南 | |||
境内入口の門 | |||
境内正面に拝殿 両横に境内社が並んでいる。 | |||
本殿と瑞垣 格式と威厳を感じさせる神社です。 | |||
小泉神社本殿 (重要文化財) | |||
片桐神社 | |||
八幡神社 | |||
九頭神神社 | |||
源宗稲荷社 |