巨勢寺跡
こせてらあと

古代の大寺院跡
所在地
奈良県御所市古瀬

由 緒
曽我川西岸にあった古代寺院。多数の礎石・古瓦が出土し、塔心塑が残る。「日本書紀」朱鳥元年(686)八月二十三日条に「巨勢寺に二百戸を封す」とみえ、延久二年(1070)の興福寺雑役免帳の葛上郡石摩荘の項に「巨勢寺田二町二段冊六条四里廿七坪一丁 廿九坪二反 五里三坪一丁」とみえ、平安時代にも興福寺末寺として当寺が存続したことがわかる。しかし、徳治三年(1308) 七月日の廃巨勢寺別当水田寄進状(春日大社文書)には巨勢寺が荒廃したため、旧領の高市郡三五条二里三〇坪・同三六条二里二四坪などの地二町一段を春日社談義料田としてきしんしたことがみえ、すでに鎌倉末期には廃寺になっていたようである。付近の小字には大門・北角・巨勢・堂屋敷・浄見坊・寺馬場・南ノ堂・堂ノ前などがある。
塔心礎は円柱孔が径八九センチ、深さ一二センチ、仏舎利孔が径一三センチ、深さ五センチ。仏舎利孔のほかに三重同心円溝、水を導く水抜き孔があり、他に例を見ない様式。付近から飛鳥時代から平安時代の素弁蓮華文・単弁蓮華文・複弁蓮華文の鐙瓦と重孤文・唐草文の宇瓦が出土。宇瓦では重孤文宇瓦が主流をなし、鐙瓦では単弁八花蓮華文瓦が中心。昭和六二年(1987)から翌年にかけて寺域の範囲確認の調査が実施され、講堂や回廊などが見つかり、塔跡や金堂推定地との関係から見て伽藍配置は法隆寺式であることがわかった。講堂の裏山斜面から創建時の瓦窯、また築地南端から平安中期の梵鐘の鋳造遺構が検出されている。巨勢寺塔跡として国指定史跡。巨勢寺塔跡の南、小字巨勢の正福寺(浄土宗本願寺派)は巨勢寺子院、勝福寺の後身と伝え、密法修行の霊場であったという。明治期の「寺院明細帳」によると、正福寺は文和二年(1353)貞光の開山と記す。本堂および山門に巨勢寺の旧礎石を多数転用している。和州葛上郡古瀬村玉椿山図(巨勢寺伽藍図)を所蔵する。
     -寺院神社大事典より-


ここからが、巨勢寺跡

案内板の通り、このコンクリートの左側を奥へはいったところです。

大日堂の遠景

面影は、何も残っていないです。 この周辺一帯に巨勢寺(大寺院)があった。 今では、想像もつかない。

塔の芯礎

周辺から集められた石仏等
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