畝火山口神社
うねびやまぐちじんじゃ

旧社格 県社・式内大社
所在地
奈良県橿原市大谷町(畝傍山の西麓)

御祭神 主祭神 息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)
豊受比売命 (とようけひめのみこと)
表筒男命 (うわつつおのみこと)
末社祭神 大山祇命 (おおやまつみのみこと) 白山神社
軻遇突智命 (かぐつちのみこと) 秋葉神社
由 緒
近鉄大阪線橿原神宮西口駅北方約1キロメートル、大谷集落の東に位置し畝山を背負った西斜面に鎮座する。創建年代は明らかでないが、大同元年(806)に紳封1戸を寄せられたと『新抄勅格符抄』にあるので、大同以前の創建だとわかる。『三代実録』に貞観元年(859)正月二十七日「畝傍山口神正五位下」同九月八日『遣使奉幣為風雨祈篤』とあり、『延喜式』神名帳には式内大社と登載され月次新嘗祭には案上官幣に預かっている旨記されている。『延喜式』巻八祝詞には、畝傍山口神は、飛鳥・石村・忍坂・長谷・耳成の六柱神を皇御孫の御舎造営の用に供する御料村守護のため、山麓に祀られていたことから考えると、本来この社の祭神は大山祇命であったことになる。それがいつのころか今の祭神気長足姫命・豊受姫命・表筒男命が主神となり、大山祇命は境内社の神になっている。しかも文安三年(1446)の『五郡神社記』には「畝傍山口神社、久米郷畝火山西ノ山尾にあり」とあるので、当時は畝傍山麓の西の尾にあったことになる。ところが当社宮司大谷家所蔵の天正三年(1575)の『畝傍山古図』では、山頂に社殿が描かれているから文安三年前から天正三年以前の間に山頂へ遷座されたことが明らかである。口碑に越智郷を本貫とした戦国の豪族越智氏が、この南方約三キロメートルの位置に貝吹城を築城の節、真北の下方にこの神社を見下ろすことを恐れて山頂に遷座したという。しかもその主神は前記のように境内社となり主神は今の三柱神に変わったらしい。『大和志』に「昔在畝火山腹今遷山頂」とあり、『大和名所図会』(寛政二年五月上木)には「今山頂に遷す。祭る所神宮皇后にまします。畝火明神と名づく。又宮寺を国源寺といふ。西の麓に神祠の址とて石あり。今御旅所と云う」と記している。江戸時代池尻村に旗本陣屋をもった神保氏は二十年毎に本殿改造または屋根替した外、祭礼には御供料五匁を奉納したという。当時郷中氏子四二ヶ村3000戸に及んだと伝えるし、近年郷中も十二ヶ村となった。
拝殿前左側の角桿石灯籠に「大和国高市郡大峰山 文明十六年申辰五月二十七日」との刻銘があり、橿原市内金石文最古のものである。元の主神をまつる境内社大山祇命神社は広庭東北の境内社中最も右の祭神である。
例祭は四月十六日で、夏祭が七月二十八日、祈年祭(御田植祭)は二月二十八日。夏祭はデンソン祭と称し「デンデンソソ」と社頭から響く太鼓の音からの俗称で、このころ郷内水田の除草も終え農家の労務も一息だといわれた。祭典前前日の二十六日に水取神事があり吉野川土田浦で修祓の後、汲んだ清浄水を持ち帰って神前に供える。俗にお峯山水取という。
埴土神事は毎年二月と十一月に行われる住吉大社(大阪府)の祭典に用いる土器を作るための埴土を畝傍山頂で採取する神事である。当日埴使として住吉大社宮司が正使となり、早朝斎戒して副使と箱持をしたがえ、道中かっては乗馬で大和入りして先ず雲梯の川股神社に着いて曽我川で斎戒装束を整えて当社に着くと、当社宮司と共に神前に祝詞を奏して山頂に登り、アランカシの古木の下の玉垣をめぐらした埴取場で、口に榊の葉を含んで一握中に含む五-六粒のねずみの糞状の埴土を三握り半取って小唐櫃に入れ、山中の榊の枝を添えて下山、陶土を加えて祭典用の土器を作る。
前述した当社神宮寺に関して、四条新町の八幡神社所蔵の元文五庚申年(1740)九月十六日の遷宮師として「畝傍山福王院法印布大窪村住」とあることや天理図書館所蔵の当社正遷宮時の遷宮人数記録にも福生院がみえる。
     -奈良県史(神社)より-


神社入口

左側が駐車場

境内

拝殿からの本殿

玉垣で本殿がよく見えません

拝殿内部

拝み所


祓戸大神

拝殿の前にあり、社殿はありません

拝殿横に子授けの神

境内の石灯籠

境内に登山道入口があり

山頂の旧社地

本殿跡だと思います

山頂からの風景

遠くに金剛・葛城山

山頂からの風景

耳成山と遠景に奈良の山
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