牟佐坐神社
むさにいますじんじゃ

旧社格 指定村社・式内大社
所在地
奈良県橿原市見瀬町718

御祭神 高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)
孝元天皇 (こうげんてんのう)
由 緒
近鉄南大阪線岡寺駅の線路を越えた西側の小丘陵上の森に鎮座する。鎮座の地、見瀬はムサの転訛だと本居宣長が言っているが、身狭(『紀』)・牟佐(『紀略』・『続紀』)とも書く。『紀』天武天皇元年(672)七月の条に壬申の乱の戦闘中、高市郡大領県主許梅の神懸りにしたがって戦勝したとの記事に「吾は身狭社に居る名は生霊神なり」「神大和磐余彦天皇の陵に男及び種々の兵器を奉れ」「吾は皇御孫命の前後に立ちて、不破に送り奉りて遷る。今もまた官軍の中に立ちて守護りまつる」とあり、「高市・身狭二社の神を礼ひ祭る。」とある。当社の禰宜宮直君述が文安三年(1446)に書いた『五郡神社記』には、牟佐神社は牟佐村築田にあり、祭神は生雷神で、旧記によると安康天皇の代牟佐の村主青によって創祀されたと記している。『三代実録』の貞観元年(859)正月二十七日に従五位下から従五位上に進められている。『延喜式』神名帳では式内大社として登載され、月次・新嘗・祈年三祭には案上官幣に預かる由緒ある古社であった。しかし『大和志』に今榊原天神と呼ぶとあるように、享保二十一年(1736)『大和志』編集当時には古の祭神や所伝を失って時流に追従し、菅原道真を祭る天神社と呼ばれるようになっている。しかも天保十三年(1842)の棟札には天神宮、春日大明神とあるし、慶応四年(1868)の棟札には天神と高皇産霊尊とあり、明治四年(1871)には本来の祭神『生雷神・思兼神』を加えたが、さらに明治二十五年の『明細帳』や昭和二十八年七月二十六日付け『宗教法人法による届出書』には、高皇産霊神・孝元天皇と届けている。この地が孝元天皇の軽境原宮跡伝承地と云われたことから天皇を祭神としたと見られる。
例祭は十月九日。
     -奈良県史(神社)より-


拝殿前の案内板

鳥居の手前から
 階段を上り、拝殿が見える状態 境内が孝元天皇の軽境原宮跡伝承地

拝殿
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