倭姫宮
やまとひめのみや

旧社格 皇大神宮別宮
所在地
三重県伊勢市楠部町5

御祭神 倭姫命 (やまとひめのみこと)
由 緒
倭姫命は第十一代垂仁天皇の皇女で、約二千年前、天照大神の御神教を受けて、五十鈴川のほとり、現在の場所に皇大神宮をご創建なさいました。神嘗祭(正しくはカンナメのまつり)をはじめとする年中のお祭りや神田のほか各種の御料地などをお定めになり、斎戒や祓の法をお示しになるなど、神宮のお祭りと経営の規模を確立されました。
 その後、代々の天皇は未婚の皇女を伊勢に遣わし、皇大神宮に奉仕させられました。このお方を斎王(斎宮または斎内親王[いつきのないしんのう])と申し上げます。

倭姫命の御巡幸
 倭姫命の御巡幸は、「日本書紀」や「皇大神宮儀式帳」に記されています。初代神武天皇以来、天照大神は皇居内でお祭りされていました。しかし、第十代崇神天皇の御代、皇居の外でお祭りされることとなり、皇女・豊鋤入姫命が大和の笠縫邑に神籬を立ててお祭りされました。その後、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が豊鋤入姫命と交替され、新たに「大神を鎮めまさむ処を求めて」、つまり永遠に安定した神事をつづけることができる最適の地を求めて、大和の国を発たれ、伊賀・近江・美濃等の諸国を経て伊勢国に入られました。「日本書紀」によると、その時、天照大神は、「是神風の伊勢の国は、常世之波重(しき)波帰(よ)する国なり。傍国可怜国(かたくにのうましくに)なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ」と倭姫命にお教えになりました。
 「皇大神宮儀式帳」には、豊鋤入姫命および倭姫命の御巡幸地の記載があり、十四箇所の比定地があげられています。
 この御巡幸は、阿部・和邇・中臣・物部・大伴の五大夫を伴う長旅で、一説には、立ち寄った各地に米づくりを伝えたともいわれています。

倭姫命の御教え
 倭姫命は、神宮所属の宮社や禰宜・大物忌などの奉仕者の職掌、お祭りの仕方をお定めになったほかにも、多くの御教えをお示しになりました。これが、神宮神職の奉仕の指針となり、世に広まりました。「倭姫命世紀」には、倭姫命が宜下された御教えが多く伝えられており、人々に大変尊重されてきました。人は神から命を分け与えられたものであり、その真心を損なうことなく、正直で清浄な敬神生活を送るべきこと。自然の秩序さながらに神仕えの誠をつくす左々右々、万事を根源に帰する元々本々など、神宮相伝の御教えが語り示されています。

御鎮座の由緒と歴史
 神宮の諸宮社の由緒はきわめて古く、奈良時代以前に遡るものが多いのですが、当宮は、格別に新しい由緒の別宮です。大きなご功績を遺しになった倭姫命ですが、長く命をお祭りするお宮はありませんでした。江戸中期の外宮権禰宜喜早清在の「毎事門」に、神部数万の人民は家々に倭姫命をお祭りして、その神恩に感謝するのは当然であると書かれています。古くから、郷土をお開きになった命への地元の人々の敬慕は厚く、信仰されてきました。そこで、命の温特をお慕いして、大正初年から、神宮司長と宇治山田市(現伊勢市)が命をお祭りするお宮の創立を国に請願し、大正十年(1921)皇大神宮別宮として当宮の創立が許可され、同十一年十一月五日御鎮座祭が執り行われました。
 昭和二十三年(1948)には「御杖代講」が結成され、現在は「倭姫命御杖代奉賛会」として、五月五日には春の例大祭、十一月五日には秋の例大祭が執り行われています。
     ―参拝の栞より―

神社入り口
神社入り口
社務所
社務所
手水舎
手水舎
参道
参道
祓戸殿
祓所
社殿
正面からの社殿
横からの社殿
横からの社殿
本殿の屋根
本殿の屋根
古殿地
古殿地

神宮徴古館

倭姫宮の入口前です
経は休刊日でなかをみることができなかった
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