月読宮
つきよみのみや

旧社格 式内大社
皇大神宮 別宮
所在地
三重県伊勢市中村町

御祭神 別宮祭神 月読尊荒御魂 (つきよみのみことのあらみたま) 月読荒御魂宮
月読尊 (つきよみのみこと) 月読宮
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 伊佐奈岐宮
伊弉冊尊 (いざなみのみこと) 伊佐奈弥宮
末社祭神 佐々津比古命 (ささつひこのみこと) 葭原神社
宇加乃御玉御租命(うかのみたまのみおやのみこと)
伊加利比売命 (いかりひめのみこと)
由 緒
月讀宮におまつり申し上げる月讀尊は天照大御神の弟神でありましす。外宮の別宮の月夜見宮の御祭神と御同紳でありますが、月夜見宮では、『月夜見尊』の文字が用いられております。  月讀尊の御事については、日本書紀の上巻に、伊邪那岐命・伊邪那美命二柱の御親神が、天照大御神をお生みになられ、次に月讀尊をお生みになられ夜之食国をお治めになるようにと、ご委任になられたと記されております。また、日本書紀では、月讀尊はその光彩(ひかりうるわしいこと)が、天照大御神に亜ぐものであるとたたえております。天照大御神の御紳徳は、「その光華明彩(ひかりうるわしこと)、六合(あめつち)の内に照り徹ほどでございます」と、太陽にたとえて表わされておりますので、月讀尊の御威徳は、それにつぐものとして、月になぞらえて、おたたえしたものと拝されます。  皇大神宮の第一の別宮である荒祭宮に、天照大御神の荒御魂がまつられ、豊受大神宮の別宮多賀宮に豊受大御神の荒御魂がまつられておりますように、月讀宮にならんで、月夜見尊荒御魂がまつられております。荒御魂とは、神様の御魂のおだやかな御姿を「和魂」と申し上げるのに対して、時にのぞんで格別に顕著な御神威をあらわされる御魂のお働きを、「荒御魂」とたたえます。  伊邪那岐宮、伊邪那岐宮におまつり申し上げる伊弉諾尊、伊弉冉尊二柱の神は、大八洲国即ち日本の国土及び山川草木をお生みになられたのち、天の下の主たる天照大御神をお生みになり、つづいて月讀尊をお生みになられた二柱の御親神であります事は、申すまでもありません。  以上の四別宮の御紳名には「尊」の文字が用いられておりますが、これは、日本書紀巻第一で、神々の御事をのべるにあたり、「至って貴きを尊といい、そのほかを命という」と注記しているもので、日本書紀の文字づかいに従っております。次に「別宮」と申しますのは、本宮との間柄を示す御称号でありまして、皇大神宮、豊受大神宮を「本宮」とするのに対し、あたかも本家に対する分家の意味で、別宮と称するものであります。 別宮の「宮」は宮号と称し、天皇の思し召しにより、古くは勅書をもって、のちには官符をもって定められたものであります。これを「宮号宣下」と申します。神社に御称号をたてまつることは御祭神の御神威の輝きによります。これを敬うこといよいよあつければ、神の御稜威も一層輝きをますものであります。  月讀宮以下四所のみやしろは、大五十代桓武天皇延暦二十三年(804)に、神宮から上進した『大神宮儀式帳』には、「月讀宮一院、正殿四区]と記され、一囲いの瑞垣内にまつられておりました。すなわち、四宮あわせて月讀宮とよばれました。伊邪那岐宮、伊邪奈弥宮に宮号が宣下されましたのは、大五十六代清和天皇貞観九年(867)八月のことであります。  大六十代醍醐天皇延長五年(927)に、有名な「延喜式」が上奏されました。これによりますと、伊邪那岐宮、伊邪奈弥宮が瑞垣をめぐらした一院をなし、月讀宮月讀荒御魂宮が一院を形成しておりました。現在、拝するように、四宮それぞれが瑞垣をめぐらした御姿になったのは、明治六年からであります。  続日本紀巻三十二に、『光仁天皇宝亀三年(772)八月の条には月讀神の御神威をかしこみ、その年の九月の神嘗祭から毎年の神嘗祭には内宮の荒祭宮に准じて、紳馬を奉ることになった」と、あるのをはじめとして、朝廷の御尊崇の事実は、枚挙にいとまありません。延喜大神宮式に、この四所の別宮に対し、幣帛を「祈年、月次(六月、十二月)、神嘗の御祭に供えよ」と、あるのをはじめとして今日においても、年中恒例および臨時のお祭りは、正宮に次いで鄭重に奉仕されております。
     -参拝の栞より-


月読宮公式ホームページ


国道23号線から

表参道入り口

葭原神社
(内宮の末社)

参道の右側に鎮座

祓え所

社殿の案内板

参道突き当たりに立て札がこの前は、古殿地でこの奥へ回りこむ参道が、右に続いている。

古殿地

参道からの社殿

伊佐奈岐宮

伊佐奈弥宮


月読宮

月読荒御魂宮


四宮が並んでいる


古殿地

反対側の参道入り口
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