伊雑宮
いざわのみや

旧社格 式内社
皇大神宮別宮・志摩国一の宮
所在地
三重県志摩市磯部町上之郷374

御祭神主祭神 天照坐皇大御神御魂 (あまてらしますすめらおおみかみのみたま)
相祭神玉柱屋姫命 (たまはしらやひめのみこと)
由 緒
御鎮座の由緒と歴史
 当宮の創立は、約二千年前、第十一代垂仁天皇の御代といわれています。「倭姫命世紀」は、皇大神宮ご鎮座の後に御贄地を定めるため倭姫命が志摩国を巡行された後、伊佐波登美命が豊かな稲を奉り、この地に神殿を造営したと伝えます。また、延暦二十三(804)年朝廷に提出された「皇大神宮儀式帳」にも宮名が見えることから、少なくともそれ以前から神宮の別宮として位置付けられていたと考えられます。志摩地方は奈良時代以前から海洋部族である磯部氏の根拠地であり、彼らがお祭りしていた神の社と、当宮との関係については様々な説が挙がっていますが、いつから朝廷が関わることになったかなどは未だ明確ではありません。
 鎌倉時代に編集された「吾妻鏡」には、源頼朝が神宮に祈願した際、神馬を伊雑宮に贈ったと記されています。この頃、神領を守るため、伊雑御浦惣検校職が置かれましたが、室町時代以降は力が衰え、江戸時代初頭、二度の仮殿遷宮は、磯部の郷人の手によって行われました。
 中世になると伊雑宮にも御師が現れ、明桜から慶長(1492~1615)の頃には檀那(特定の寄進者)を持つに至りました。やがて、伊雑宮の神格を高めようと、磯部の御師の間に、内外両宮は伊雑宮の分家であるという主張が生まれます。「日本書紀」にある「磯宮」、「倭姫命世紀」の「伊蘇宮」などが伊雑宮であるとの説を立て、紳訴に及ぶことが重なりましたが、明暦四年(1658)朝廷からの綸旨・裁決によって伊雑宮は内宮の別宮と定められました。
 地元の人々との長く深いかかわりにより、伊雑宮には高欄を巡らし金銅飾金物を奉飾するなど他の別宮とは異なる点がありましたが、明治四十二年(1909)度の遷宮から他の別宮と同じ建築様式に改めました。
特殊祭典
 御田植式 伊雑宮の御田植式は極めて古雅な神事で、「磯部の御神田」の名で国の重要無形文化財に登録され、日本三大田植祭の一つとされます。毎年、宮域の南に隣接する御料田で六月二十四日(六月月次祭当日)に、花菅笠を被った早乙女や、赤い振袖の少女の姿で田船に乗る太鼓打ちの少年、素襖烏帽子(すおうえぼし)の囃子方(はやしかた)など、色鮮やかな装束を付けた地元の人々によって、華やかに行われます。
 参拝・修祓(しゅばつ)の後、まず早乙女等が御料田に下り、手を取り合って回る「苗取り」が行われます。次いで、御料田の畔に立てられた大うちわを三度扇いで倒し、近郷漁村の青年たちが下帯姿で勇壮に竹を奪い合う「竹取り」が行われます。続いて御田植となり、一列に並んで植えてゆく間、謡い方、小鼓方(こどかた)、笛方、ささら方、太鼓方(おどかた)が調子をそろえて囃します。半分を植え終わった頃休憩し、少年二人による「刺鳥差(さいとりさし)」の舞踊や、乾若布を肴に小宴を行い、植え終わると一同の「踊り込み」で再び伊雑宮に戻り、童男の「納めの仕舞」で幕を下ろします。式は、午前十時から夕刻まで、一日を掛けて行われます。
     -参拝の栞より―

神社入り口
神社入り口

倭姫命と伊雑宮・上之郷
 伊雑宮については、倭姫命世紀に垂仁天皇27年秋、一羽の真名鶴が稲穂を落とし全国に稲作が広まり、伊雑宮を創建したという神話が出ています。
 また、別の記録では古くから大神の遙宮(とおのみや)として祭られており、今も皇大神宮の別宮として全国の各地から大勢の方々が参拝に訪れています。
 上之郷は伊雑宮の鎮座地として発展し、現在まで時代とともに変化する中で、残された貴重な文化財を継承しています。
参道
参道
井戸
参道横の井戸

忌火屋殿
祓殿
祓所
社殿
伊雑宮社殿
本殿
本殿
倭日への命の遺跡
倭姫命の旧跡地

 倭姫命の旧跡地として語り継がれている所には、鏡楠の残根と天井石があり、鏡楠には注連縄が張られています。大正12(1923)年に枯死した鏡楠の根元から発見された室町時代の白銅鏡2面は、志摩市立歴史民俗資料館に保管されています。
天井石と鏡楠
天井石と鏡楠

千田寺跡の西隅にあるうろにさらされた楠の切り株のもとに、自然石の縦4m横3m厚5十cmの天井石が掘り出されていて中央が割れている。
 大正末期のことであった。この大楠が樟脳用に伐り倒された根元を掘ったところ、この天井石があらわれ、その下から鏡や勾玉などが出て来てこれは倭姫さんの遺跡ではないかということになった。
 そのころイセ徴古館の近くに倭姫命を遥拝する神社が建設中であった。この掘り出された鏡などは持ち去られ、この地の鑑定は官憲に封じられてしまった。それは六十年前のことであった。里人はいう。倭姫命の遺跡であろう。千田寺をたて遺影をなぐさめ、楠を植え楠宮の霊所として来た。
千田と庚申堂
秋葉堂と庚申堂

手前左の注連縄内が千田の御池

千田の御池
 千田の御池の名称については、倭姫命世紀にある「千田」の地名説と、明治10(1877)年に焼失した「無量山千田寺」の寺号説などがありますが、地元ではその周辺一帯を「千田」と呼び、休憩所など環境整備が進められています。

秋葉堂と庚申堂

 堂宇の中には秋葉社と庚申碑が安置され、「秋葉さん」「庚申さん」と両方の名前が付いています。
 昔はそれぞれ別の所に祭られており、明治の末に堂宇を建て一緒に祭ったといわれています。
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