龍田神社
たつたじんじゃ

旧社格 県社・式内社
所在地
奈良県生駒郡斑鳩町龍田一丁目5-6

御祭神 主祭神 龍田比古大神 (たつたひこのおおかみ) 右社殿
龍田比女大神 (たつたひめのおおかみ)
天御柱大神 (あめのみはしらのおおかみ) 本殿
国御柱大神 (くにのみはしらのおおかみ)
天児屋根大神 (あめのこやねのおおかみ) 左社殿
外三神
瀧祭大神
末社祭神 河合大神 (かわいのおおかみ) 川合神社
弁天神 (べんてんのかみ) 弁天神社
三大大神 (さんだいおおかみ) 三大神社
広田神 (ひろたのおおかみ) 広田社
猿田彦命 (さるたひこのみこと) 地主神社
猿田彦神 (さるたひこのかみ) 猿田彦神社
稲荷大神 (いなりのおおかみ) 稲荷神社
不詳  美波神社
由緒
由緒沿革
産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱之大神、国御柱之大神の二荒御魂と龍田比古之大神、龍田比女之大神、陰陽二柱の皇神である。風雨を鎮め水難、疫病を防ぐ神と楓・桜等の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である。他に末社として十二社を祀る。
十代崇神天皇の御代に年殻の凶作が続いた時、帝自ら卜占いをもって占い、天神地祇を瀧田山の聖地に祀られた。後聖徳太子が推坂山で法隆寺建立の地を指示された龍田大名神を法隆寺の守護神として鬼門除紳として法隆寺建立と同時に御廟山(錦ヶ丘)南麓の地に稯し祭られた。(聖徳太子伝私記より)
中世は法隆寺より別当坊三十口を給う。龍田三十講、平群四十八郷の産土神として莊厳なる祭儀を行った神宮である。
     -境内の由緒板より-

竜田比古竜田比女神社 二座
社殿に、聖徳太子が法隆寺創建に当たり、三宝擁護、伽藍の鎮守として現三郷町の天御柱・国御柱を勧請して創始したと伝える式内社である。但し立野の風神としての二座でなく、法隆寺創建以前から祀られていたとの説もなくはない。
現在竜田大社の神幸の御旅所としての一面と法隆寺の鎮守としての両面を持っている。明治以前は法隆寺から当社へ別当を置き、例祭には、30人の僧侶を遣わして法会を厳修し、竜田会または竜田講とも称された。明治の神仏分離令で、法隆寺から分離、立野の竜田大社の摂社となったが、大正十年請願によって県社となり、同十一年三月大社から分離独立した。
     -奈良県史(神社)より―


神社入り口

法隆寺西門からの旧街道沿いで、国道25号線から少し北になる。

境内社

拝殿

楠大明神

後ろの大楠が御神木

龍田神社
金剛流は、能楽シテ方の一流で、大和猿楽四座(結崎・円満井・外山・板戸)のうちの板戸座を源流とする。
板戸座は、その名称を法隆寺周辺部にあった古代郷で、おおむね現斑鳩町の並松・五百井・服部・竜田・小吉田・稲葉車瀬・神南付近を範囲とする板戸郷に由来し、古刹法隆寺に所属して発展をみた猿楽の座である。
中世の法隆寺付近には、法隆寺東郷・西郷が成立しており、その郷民たちの精神的紐帯として祀られた竜田神社を中心に、竜田市が栄えていた。「法隆寺寺要日記」によれば、覚元元年(1243)にはこの市の守護神として、摂津西宮から夷神が勧請され、その祭礼に郷民自身による猿楽が盛んに演じられたとある。
法隆寺付近の郷民たちは、竜田市の経済力を背景に、強固な自治的組織を生み育て、祭礼に彼ら自身が芸能を演じて楽しむと共に、彼らの中で法隆寺に所属し、大和一円で活躍した専門の猿楽集団である坂戸座を育てたのである。よってここに金剛流発祥之地の碑を建てる。
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