出石神社 いずしじんじゃ | |||
旧社格 国幣中社・式内名神大社 | |||
所在地 | 兵庫県豊岡市出石町宮内99 | ||
御祭神 | 主祭神 | 天日槍命(あめのひぼこのみこと) | 本社 |
伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ) | |||
末社祭神 | 麻多烏比賣(またおひめ) | 比賣神社 | |
宇賀能魂神(うかのみたまのかみ) | 稲荷神社 | ||
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) | 市杵島姫神社 | ||
菅原道真(すがわらみちざね) | 菅原神社 | ||
由 緒 | 御祭神 伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ) 天日槍命(あめのひぼこのみこと) 天日槍命が新羅の国よりお持ちになりました八種の神宝を出石八前大神として、また天日槍命の大御霊を御祭神として祭祀しています。 天日槍命は、『古事記』、『日本書紀』ともに新羅国王の王子で、日本に渡来されたとし、その事蹟は記紀のほか『播磨国風土記』、『筑前国風土記』逸文等にうかがうことができます。 八種の神宝とは、『古事記』には珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふるひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(かぜきるひれ)・興津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)の八種としています。 田道間守命(たじまもりのみこと)(菓租)、神功皇后(仲哀天皇皇后)は天日槍命の御子孫です。神社の創立年代はあきらかではありませんが、社殿の「一宮縁起」には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、遅くとも八世紀の初め頃にはすでにこの地で祭祀が行われていたことがうかがわれます。 但馬の国一の宮として当地では別名を一宮(いっきゅう)さんと呼び親しまれています。天日槍命は泥海であった但馬を円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、また殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めています。 現在の社殿は大正三年に再建され、透塀で囲まれた三間社流造の本殿、その前面に切妻造の幣殿と祝詞殿があり、拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面に拝殿の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建築です。神門は丹塗りの八脚門で、数多くの蟇股を飾り、左右に連なる塀も丹塗りです。境内東北隅に約三百坪の禁足地があり、老樹がうっそうと生い茂り、入れば祟りがあるといわれています。 -由緒略記より- | ||
一の鳥居 | |||
鳥居からの参道 境内までまっすぐな参道 | |||
境内 | |||
二の鳥居と神門 | |||
朱の神門 以前は辰砂(硫化水銀)の丹に塗られていたが、現在のものは、ウレタン塗装とのこと。 | |||
鳥居の残欠 (布指定文化財) 平安朝(一千年前)の昔を偲ぶ鳥居の遺物 当神社は奈良・平安時代の頃、但馬唯一の霊社として最も隆盛を極めたが、その第一鳥居は狭間坂(出石町片間)に、第二鳥居は鳥居(出石町鳥居)に建っていたことを云い伝えていた。たまたま昭和八年出石川改修に伴い鳥居橋の橋脚の工事中、地中から此の鳥居両柱の元口と、その下から多くの古銭が発見された。これは、当時の第二鳥居の遺物であり現在の鳥居の区名が起った由来ともなっている。 平安朝の昔、但馬の国司や都の人たちが国府に着くと次々にこの鳥居をくぐって出石神社に参向した往時を偲ぶことができる 重之集下に そねのよしただたぢまにていづしの宮にて なのりそというものをよめといへば 千はやふる いづしの宮の 神のこま ゆめなのりそや たたりもそする 晩のまかきにみゆる 朝顔はなのりそせましわれにかわりて 源 重之(平安朝歌人) 立春の日に紳馬藻を奉献する神事が今も続いている 紳馬藻を奈乃利曽(なのりそ)と訓じ 海藻のほんだわらのことである 但馬一宮 出石神社社務所 | |||
拝殿 | |||
拝殿 | |||
社殿全景 | |||
本殿 | |||
本殿 | |||
末社 比賣社(左側) 夢見稲荷社(右側) | |||
末社 天神社(左側) 市杵島比売社(右側) |