畝尾都多本神社
うねおのつたもとじんじゃ

旧社格 村社・式内社
所在地
奈良県橿原市木ノ本町114 (啼沢の杜に鎮座)

御祭神 主祭神 啼沢女神 (なきさわめのかみ)
末社祭神 市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 厳島神社
品陀別命 (ほんだわけのみこと) 八幡神社
由  緒
奈良国立文化財研究所(飛鳥藤原宮跡発掘調査部)の北に鎮座。創建年代は明らかでないが、古いことは『万葉集』巻第2の202に「哭沢の神社に御酒すえいのれどもわご王は高日知らぬ」とあり、その左注に、「右一首、類聚歌林に曰く、桧隈女王の泣沢神社を怨むる歌といえり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋七月辛丑の朔の庚戌、後皇子尊薨りましぬといえり」と記されている。持統天皇の十年(696)七月十日薨じられた高市皇子の延命をここの神に祈ったのに、聞き入れてくれなかったとの歌意であるが、白鳳の頃概に此の神社が存在していたことを示すものである。『延喜式』神名帳巻九十市郡19座の小社畝尾都多本神社として登載されている。祭神の 啼沢女神 とは『古事記』上巻国生みの神話に、伊弉那美命が火の神迦具土神を生まれたため神去りましたが、伊弉那岐命が「愛しき我が那邇妹の命を子の一つ木に易へつるも」と言いたまひて、乃ち御枕方にはらばひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木ノ本に坐して泣沢女神と名づく。」とある。古来この神社の境内地全体を泣沢の森といい、水神として特に延命の神として仰がれたことは、前記万葉集の歌でもうかがえるし、本居宣長は『古事記伝』に「人命を祈る神」といい、平田篤胤も「泣沢売神は命乞いの神なり」といっている。
当社には本殿がなく、神殿としての様式を備えたように見えるが、正面石階上に 啼沢女神 とある自然石の石標が立ち、中門をはさんで板塀瓦葺の神垣(神籬)の中に人頭大の自然石で積まれた内径136センチメートルの古井泉が御神体になっている。かっては依り代であったと思える玉だすきの切株がその手前に残され太古の祭祀形態をしのばせている。例祭は九月十五日。宮座は東座・西座があり、当屋でお仮屋を建てて神迎えし座祭りする。
     -奈良県史(神社)より-


参道入口の社標と案内矢印

神社参道
右側は、奈良国立文化財研究所です

参道左側に拝殿

境内

参道正面奥に末社八幡神社が鎮座している。本殿もありこちらが本社かと間違うほどです。

八幡宮の社標があります

左側が本社拝殿で、右奥の社殿は、八幡神社

境内の万葉歌碑

泣澤女の神の杜の石碑

本殿がなく瑞垣の中に井戸が祭られているようです。

入り口道路の案内板

隣にある飛鳥藤原宮跡発掘調査部(奈良国立文化財研究所)

飛鳥藤原宮跡発掘調査部の案内板
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