橘 寺
たちばなてら

仏頭山上宮皇院菩提寺
天台宗
所在地
奈良県高市郡明日香村橘532

御本尊 木造聖徳太子坐像(室町時代・国指定重要文化財)
橘寺の創建と変遷
当寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があり、その第四皇子の橘豊日命(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされ注釈を加えられたのが三経義疏で、現在も保存されている。33代推古天皇14年秋7月(西暦606)に、天皇の仰せにより、勝鬘経を三日間にわたりご講讃になった。その時大きな蓮の花が庭にlmも降り積もり(藻草塚)、南の山に千の仏眼が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こり、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるよう太子に命ぜられた。
そして御殿を改造して造られたのが橘樹寺で、聖徳太子建立七大寺のーつに数えられた。当初は東西八丁(870m)南北六丁(650m)の寺地に、金堂、講堂、五重塔を始め66棟の堂舎が建ち答んでいた。天武天皇9年(西暦681)尼房失火の為十房焼いた記録があり(日本書紀)、当時尼寺であったのか。光明皇后より丈六の釈迦三尊、淳和天皇が薬師三尊をご寄贈になり、不断法華転読及び法華八講が修法せしめられた。法隆寺の金堂日記の中に「橘寺より小仏49体、永暦2年(酉暦1078)10月8日迎え奉った」と記されており、玉虫厨子を移したのもこのころか。近衛天皇久安4年(西暦1148)5月15日雷火のため五重塔焼失。60年後鎌倉時代文治年間三重塔再建、元興寺より四方仏を迎え奉ったなどの記録あり。後柏原天皇永正三年(西暦1506)、多武峯大衆により焼かれ全く昔日の面影を無くしてしまった。江戸時代は正堂、念仏堂共に大破し僧舎一棟のみと記されている。現在の堂は、元治元年(西暦1864)多くの人々の力により再建実現したものである。昔は法相宗であったが、江戸中期より天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名菩提寺とも言われている。
     -拝観のしおりより-


石標と橘寺伽藍

東門入り口

東門から見た太子殿

橘寺の伽藍配置(今・昔)

五重塔の礎石

境内に今も旧伽藍の礎石が残っています。

五重塔の心礎

塔の中心の柱の礎石


観音堂と護摩堂

護摩堂(不動明王)

 太子の愛馬
「黒の駒」

太子殿

前に黒の駒
後方に西門

太子殿から東方を見た風景

黒の駒と観音堂後方には御破裂山が見えます

二面石

太子殿の南側にあり、右側が善面で、左側は悪面と人間の二面性を表した飛鳥時代の石造物。

観音堂

川原寺跡から橘寺へ
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